もろもろ感想ノート

見た聞いた読んだ記録

モモ

 

小学校の学芸会でモモをクラスの劇としてやったことがある。

灰色の男たちは無機質で理解し難くひたすら怖い存在であり、

大人たちは浅はかで、共感できるのはモモやその周りの友達たちだけだった。

 

その時は、時間の大切さもわからなくなるような大人には、絶対ならないぞ。などと特に強がるでもなく、ごく自然に思っていたと思う。

 

あの時から20以上経ち、そろそろ若者という枠からも飛び出さなくては行けない年代になってきた今読むと、大人たちがなぜ灰色の男たちに騙されてしまうのか、分かり過ぎるほど分かってしまう。

最初の犠牲者である庶民中の庶民「床屋のフージー」は自分なのか?と思うほど、共感してしまい、灰色の男の見事な営業トークに騙される姿は他人事では無さすぎて恐怖でしかなかった。

 

読書家の人生を送っていない自分でも「ミヒャエル・エンデ」という名前は「児童向けファンタジー作家」として頭にある。

前述の通りモモは学芸会で触れたし、ネバーエンディングストーリーは何度も見た大好きな映画だ。

今回モモを読むにあたり、「時間」という哲学的なテーマを扱っていたり、ストーリーの概要は覚えていたので、そんな大人っぽいテーマを、どのくらいファンタジックに楽しく描いているのかな。などと少しワクワクした気持ちになっていた。

 

が、実際時間に追われながら仕事をして、土日休みでもなんとなく休みきった気がせずに毎日を過ごしているような、ごく一般的な会社務めをしている自分は、読んだ結果、全く人ごとの、あっち側の世界のファンタジーとして読めなかった。

物語上では、モモの見事な活躍で灰色の男たちは残らず消え失せ、人間たちはゆったりとした幸せな時間を取り戻せた。散々現実世界に近づけた設定で怖がらせて来た割に、そんな現実離れしたグッドエンディングを見せつけられて、いつの間にか「今の自分達の苦しみはどうやったら解決するのか?」という姿勢で読んでしまっていた自分は、急に物語と自分が生きている現実世界が切り離されてしまったようで、読後は急に突き放されたような気持ちになった。

 

ただ、自分の手元にいくつか作中で気になった言葉がメモとして残っており、それがこれから物語のようにモモが存在しない、現実と向き合っていくための心強い味方になってくれそうなのが少し救いだ。

特に掃除夫ベッポが教えてくれた「とても長い道路の掃除を受け持った時」の仕事に対する考え方は、今後やることがたくさんあって不安な時に何度も見返したい話だった。

 

「とても長い道路の掃除を受け持った時」

「いちどに道路全部のことを考えてはダメ。次の一歩のことだけ、次のひとはきのことだけ考える。」

「すると楽しくなってくる。これが大事。」

「気がついたときには一歩一歩進んで来た道路が全部終わってる。どうやり遂げたかは、自分でも分からない。」

 

モモの中に散りばめられた「現実世界で時間泥棒から身を守る」ヒントは他にもある。

「時間=心そのもの」という言葉だったり、モモがミスターホラと一緒に見た美しい情景が実は「モモの中にある時間」の世界だったり。

だが残念ながら私はこれらの言葉の意味を解読しきれていない。

現実ですでに灰色の男に時間を奪われている自覚があり、物語の中に救いを求めていた自分は、このような抽象的な美しい表現を読んで、核心に触れたときだけ抽象的なファンタジックな表現でずるいな~と思ってしまったが、抽象的な時間という概念を見事にファンタジックな表現にできているところが児童文学として評価がされている部分なんだろうと思うが。

 

モモの中にあったような美しい情景の「自分の時間」の世界を取り戻したいのなら、自分の頭で考え、自分なりの答えを出す。ということなんだ。と一応無理やり思った。

モモの世界の子どもたちが想像力豊かに遊んでいた時のように。

 

他、気になったところ

 

モモとは一体何なのだろう。

自分が大人になった今あらためて読み直そうと思ったのはこの部分が急に気になったからではあるのだが、読んでみると意外にモモは普通の女の子なのだ。

他の人と違う、不思議な力を持っている少女ではあるが、それも「人の話を聞くのが上手」という点のみで、本当に追い込まれてしまった時は、灰色の男たちに時間を渡してしまうんではないだろうかという危うささえあった。

そんな普通の少女モモだが、マイスターホラに気に入られ、ホラと一緒にいる不思議な亀カシオペイアに助けられ、みんなの救世主になる。「マイスターホラに気に入られ」なければ、ほぼ無力な少女で終わってしまっていたので「マイスターホラに気に入られ」の部分がモモという少女を考える上ですごく大事だ。

なぜ気に入られたのか、マイスターホラ自身が色々話していたが、どうも抽象的で理解しにくかった。

が、灰色の男たちがモモのことを「時間を人に与えている」と説明している言葉があり、やっと「人の話を聞くのが上手」の答えを見た気がした。

人の話を聞く=自分の時間を人のためにつかうことで、モモは人に時間を与えていた。なので、時間を人間に与えていたホラは、モモの動向に注目していた。のだろうなと思う。モモと話すと人が生き生きとするのはこの「時間を与える」という力のためではないか。

ただ気になることがあって、モモはやせっぽっちの浮浪児であり常に飢えている。という点。もちろんそういう言葉だけ並べて「可哀想な少女」と安直に捉えてしまうのが間違いであることは、モモと周りの人々のふれあいを読むと分かるのだが、だがやはり一歩踏み間違えると、すぐ可哀想な少女になってしまう存在だと思ってしまう。

友人のジジは大金持ちになったわけだから、物語後のモモの食生活は安泰なのだろうし、食事が安定してもモモという人物の本質は、社会の外側にいる限り変わらないのだろうと思うので、食事に飢えているから人にやさしく出来る訳では無いだろう。

あとがきにもあったが、モモは管理された社会の外側にいる存在だ。だからこそ自分の時間を全て自分のものにすることができ、人の話を聞く=人に時間を与えることができた。だがそんなモモは食べ物に飢えている痩せた子供。というのは何か意味があるのかなと思ってしまう。

この点は答えがよく分かっていない。

 

ジジという作家

ジジが「お話を作り出せる人」なので、どうしても作者の姿が重なっているのかな?と推測してしまう。

そう考えると、ジジは時間の無い世界に取り込まれてしまうので、この物語を書いて現代社会に警鐘を鳴らしているような作者もまた、灰色の男たちの存在に抗えない。という矛盾を抱えているのかなと思った。

このあたりはだいぶ妄想が膨らんでいるだけだが。

 

改めて、色々な自分なりの考察ができたり、人生のあり方について考えることができたりととても読みがいのある作品であったなと思う。

次回読むことがあれば、もう少しマイスターホラの謎掛けみたいな話し方に少し追いつけるようになっていたい。